広く浅く知識を学ばせることは必要でしょうが、今はあまりにも「死に知識」が多いシステムですね。やはり大まかにでも職業教育を行い、自分の進路をある程度見定めて必要なことを徹底して勉強していく。進路を変え、学び直せることも自由なシステムに。興味がなければ勉強は進みませんね。

古文・漢文いらない!にも書きましたが、必要のない知識を詰め込むことはないんじゃないか?という意見には賛成です。

例えば、古文・漢文がセンター試験に出て、プログラミングがセンター試験に出ないことについて合理的に説明できる文科省の役人はいないでしょう。

必要性から考えれば後者のほうが圧倒的なのに、現在プログラミングを高校で教えているところは皆無なのです。

古文・漢文の先生が失職しないために古文・漢文は存在しているのではないか?という穿った考え方をしてしまいそうなので、もしも、このブログをみて古文・漢文のほうがプログラミングよりも優れているということを論理的に説明できる人はコメント欄にお願いします。

スピード

このような問題が起こってくるのは、公教育のアップグレートよりも世の中の情報のアップグレードのほうが早くなってきているからだと思います。

簡単に言うなら、学校教育が世の中の流れについていっていないと思うのです。



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そういう世の中では、学びたいことを主体的に学ぶことが必要になります。

これは、教育改革の理念そのものですし正しい方向性だとも思います。しかし、実際の教育の場で行われる「主体的な学び」は、教師の準備した主体的学びにすぎません。

例えば、「先生!今日の授業はPythonを学びたいのですが」と生徒が言ってもそれを自由にさせる教師はいないでしょう。今後行われる、主体的な学びは散歩をしている犬のリードが少し長くなった程度の事なのであり、野原銃を自由に走り回れる主体性は発揮されることはありません。

専門教科を指導するという役割は、映像授業などにとってかわるべきでしょう。

教員という仕事は、「先生〇〇学びたいんですが?」と言われたときにそれに対応する対応力にしていかないといけないのではないでしょうか?

「ゆとり教育」のときもそうでしたが、文科省が考えることの根本はいつも間違っていません。

しかし、最後に出てくるのが「ゆとり風」教育であったり「主体風」的な学びになってしまうのが残念です。

 

 

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